網野善彦氏の「中世の非人と遊女」を読んでいる
村落の相互扶助機能を持つ頼母子講
実は土豪、商人の新たな収奪方法だった
二毛作の麦を農民から領主が次第に収奪していく
新しい事が始まり民が豊かになっていくようだが
その実 収脱する側が仕組んだものであったり
その豊かさや権利を徐々に収奪していくものだったり
アメリカの大規模経営の農場の生活も実は貧しく質素なものらしい
いまだに日本の農業も・・なんて声も
リーチも玄人が素人を嵌めるのに都合がいいのでせっせとひろめたそう
手を変えられずツモ切りだけなので あたり牌を掴ませ振り込ませる
そうやって儲けた人も成功者の範疇
今も昔も
別にええねんけど、そういう人は 恥じらいがね 無い人がね 多いからね
自分の実力かの ?
この本というか網野氏の本は本当に面白い
叡尊が癩者の救済に身を捧げながらも その病を「前世の宿業」と見ていたこと
吐棄すべき敵手を癩者とみたてて「罵言の極致」を発する一休宗純
癩の恐怖を不信者に対する罰として「わかりやすく」解説する法華経など
仏教思想に内在する差別性
盲人、不具者に対する残酷な笑いにみちた狂言
中世民衆の大らかさ逞しさと同居する嬰児殺害やたやすい子供の質入・売買
今の我々と変わらない
というよりその時代に生きれば誰しもそうするのであろう
桜井会長がHPで書かれている
人それぞれ捨てようがない遺伝子をえて生まれる。
そして、それぞれの周りで型作られた環境の中で生活して染まる。
染められた色がその人の人間形成の色合いとして見てとれるから
環境が変わると、その人の持つ色合いも変わってしまう。
〜(中略)〜
環境の変化、状態の変化、置かれた立場で
こうも一気に逆転してしまうことが人間の持つ性であろう。
この逆で善良であるものが残酷の人間に変化することもある。
人とは環境によって変わることは確かであろう
善良も残酷もどちらも持ち合わせているのが人間であるのかもしれない。
自分の残酷さは必要以上に正当化し被害者面で当然のように肯定し
善良な時は自分の残酷さには目を向けぬ