心と身体

昨日、越前からの帰り道

暇だったので運転しながら、歌う

身体の響き具合を観察していると

その内に唸りとも威嚇とも言えぬような声が自然と出てくる

吠えるようにも聞こえる

意識的に吠えているのではない

端から見れば悪霊憑きのよう


勿論、悪霊なんぞは憑いてない

吠えているのは自分自身で、その吠えている自分を

頭だけが妙に冷静に、全くの他人を見るように

じっと観察し続けている


5分か10分ほど吠えていると、少し落ち着いてきた

何かが認めてもらいたかったんや

そう感じた後、少し穏やかな感じがした

穏やかさが少しばかり続いた後

パパパとイメージが浮かぶ

小さいころ死体を振り回した蛇

目も開いていなかった3匹の捨て猫

癌で両耳が取れてしまっていた、初代のミー

二十年近く家で飼っていたゴロ


蛇は振り回した後、口に爆竹を詰めて破裂させた

後で怖くなり後悔した

蛇は執念深く、祟ると謂われるのを思い出し

蛇に対してではなく、祟りへの畏れから後悔した


捨て猫は、真冬の側溝の冷たい水の中で泳がせるという

非道いことをし、2,3日後に死んでいた

まだ小学生だった私は当時何も気付かず

数年経って、やっと自分が殺したんやと気が付いた


初代のミー(猫)

耳がなくなっても、癌はどんどん酷くなっていく

それでもずっと、人懐っこくすり寄ってきていた

あの子は生きている間楽しかったのだろうか


ゴロは以前書いたけど

最後を看取れなかった

玄関に一匹で居る間に亡くなった


人間というのは本当に

日々の一つ一つの事がずっと繋がているのだな

いろいろなものを受け取り

それらが、身体の中に詰まっている

そう感じた後、ゴロの最後を看取るイメージが過ぎる

赦してくれたんだ と思うと涙が出た

思うだけでなく、ありがとうを口に出して言わなければいけないと感じて

声を出そうとするけど、先程まで吠えていたのが嘘の様に

声が上手く出てこない

搾り出すように、ありがとうと言った時

そのありがとうに存在を感じた

言葉ではなく、言霊なのだと思った


2代目のミーを思い出した

初代のミーが死んだ後暫くして、家に貰われて来た

家の中が和んだ

遣わされたのかな ? と思った

神とは自然への畏れと偶然への感謝なのだな


人はいろいろなものを受け取り

それらを身体というフィルターを通して

身体という入れ物に入れていく

身体の中には、いろいろなもの達がいっぱい降り積もっている

それが心と身体なのだ