かくれ里を読んで

先日、白洲正子さんのかくれ里を読み終えた

気になったところを参照させて頂き、感じたことなど


163頁

織物はまだ十分に形をなしていなかったが、

とかくごまかすことしか知らない商人、

というよりごまかすことが技術であり、美徳であるような工芸の世界に、

これだけは一風変った新鮮な味を持っていた。


今程酷くはないけど昔から変らないのか、経済というのは

バランスが偏り過ぎているんだろうか ?


127頁

過渡期というと、中途半端の代名詞みたいだが、

過渡期ほど多くの可能性を包含し、期待にあふれた時期はない。

〜(中略)〜室町こそそういう時代だと私は思っている。


先日の六古窯展で贅沢に過ぎると思ったけど

ひょっとして、今の備前もそういうものなのかな ?


238頁

近頃はすべて「一流」のものが堕落し、〜(中略)〜

げて物が謙虚さを失って、一流ぶったら元も子もなくしてしまう。


芸術


127頁

残念ながら彼にはもうこの屏風からほとばしる気韻と新鮮さはない。

装飾が勝ち、工芸品になりすぎている。

これは宗達ばかりでなく、桃山時代の通弊で、

ものが頂点に達した時の悲劇であろう


侘びは始まり、絢爛は頂点

侘びの不完全なものとはそういうもの ?


127頁

自然と芸術の間には、

作者だけしか知らない密約のようなものがあるに違いない


98頁

自然にはじまって、自然に還る。

だが、それは昔のままの自然ではない。

そういうものが、日本の美であり、形ではないかと私は思う。


人間が変われば自然も変わり、自然が変われば人間も変わる

人間も自然の一部であり、伝統の美も自然の変化の流れの中にある


196頁

最澄も、空海も、想像を絶する偉大な人物で、

古代仏教の頽廃の中から生れた天才なのだ。

人間本来の欲望から、目をそむけるような狭量な人物ではない。


196頁

ふしだらに流れるのを戒めたために他ならない。

花魁に絶大な見識を与えたように、

稚児もみだりに犯すことのできぬ神聖な存在と化した。


198頁

花伝書」その他の芸術論は、その体験の上に打ち建てられたが、

少年時代の美しさを、「先ず童形なれば、何としたるも幽玄なり」といい、

「初心の花」を保つことを生涯の念願とした。

〜(中略)〜真の幽玄は女体の上にあるといい「幽玄の根本風」、

「幽玄妙体の遠見」などと呼んで、芸道の第一においた。

〜(中略)〜「遠山に花ふたたび咲きて、雪のごとく降りかかる」

ほのぼのとした風姿にたとえられるであろう。

「何としたるも幽玄」だが、長持ちしない童形の美を、芸の力によって、

女体の上に再現することが彼の理想であった。


性という、人間の内にある一番の自然に対する先人の見識と距離感覚

そこに発見された美


278頁

信仰は、たとえていえば芸と同じようなもので、

単に伝承するだけでなく、実行することによって伝えられ、

伝えられていく間に、洗練と精緻を極める。

いわば作曲家と演奏家の関係にあるといえよう。


279頁

現代人はとかく形式というものを軽蔑するが、

精神は形の上にしか現れないし、私たちは何らかのものを通じてしか、

自己を見出すことも、語ることもできない。

そういう自明なことが忘れられたから、宗教も芸術も堕落したのである。


神=自然に対する畏れと偶然への感謝を失くした現代人

もしかすると、感覚も形なのか ?


170頁

私がおもしろいと思うのは、いくらたくさんのものがくっついても、

民衆の信仰は、常にはじめの神とともにあるということだ。

生活を離れて信仰はない。


逆に言えば生活が信仰を変えていく

現代のライフスタイルとビジネススタイルからは

何が生み出されているのだろう ?

信仰のある人間に齎される景色とはどのようなものだろうか ?


230頁

徳利は日に三百六十本作るのがふつうで、達者な人は四百本もひいた。

〜(中略)〜自分が生れた土地に住み、祖先の職業をつぐ人たちは仕合せだ。

が、そう思うようになるまでには、長い年月を要するであろう。


233〜234頁

荒川さんがいい生活をしていると書いたのも、贅沢という意味ではなく、

自分にも他人にも、心の通った付合いをされるからで、

それこそ豊かな暮らしというものであろう。

そういう暮らし方を、荒川さんは、焼き物から教わったに違いない。

ろくろを回す手の中から覚えたと思う。

さらにいえば、その背後にある茶道の伝統も忘れてはなるまい。

お茶は却ってこういう所に生きている。

虚飾にみちた茶道の世界ではなく、お茶の飲み方も知らない

(と荒川さんはいわれる)自由な生活の中に。


今の仕事でそんな風に物から教わることが出来る仕事が

どれほどあるのだろう ?


224頁

こういうのんびりした所でないと、いい糸は生れない。

いや糸ばかりでなく、人間も育たないと思う。


252頁

が、ほんとうにまじり気のない、深い味の茶は、

このような畑からではなく、自然に育った山茶の古木からとれるそうで、

そういう話も私はずい分おもしろいと思って聞いた


314頁

だが、それはどの宗教や思想にしても同じことだろう。

人はなんでも都合よく自分の身丈に合わせて解釈し、

いわば誤解によって物事が保たれて行くのは、

考えてみればおもしろいことであり、おそろしいことでもある。


314〜315頁

文化は発達しすぎると、柔弱に流れる。

人間は自然から遠ざかると、病的になる。

多分に野蛮なところはあるけれども、そういう危機からいつも救ったのは、

山岳信仰の野生とエネルギーであった。


へなへなな人間でもお金さえ儲けていれば

称賛され大きな顔をする

もう、救われることのないところまで来てしまっているのだろうか

正子さんの本に限らず、30年40年前に書かれた本が

今でも猶新鮮さを失わずに、またその内容が

現在の多くの問題の根深いところにまで言及されているのは

先達、後進に対して恥ずかしい限りだ