‘空になる心’‘虚空の如くなる心’を思い出す
・・・そうか。今まで心だと思っていたものは
心の表面の波のようなもんか・・・
不図納得した
納得すると、感情も想念も心とは全然違う場所だな、と思える
西行、青女の滝、まったく知らないで偶然に辿り着いた崇徳院の御廟・・・
ここいら辺の影響が濃いな、と思いつつもう暫し深く考えると
ああ、今まで縁のあった人、物、全てのお陰か
そのお陰でここまで来られたのか、と
ふーむ、面白いな
と、その心を感じながら働く
うーん、表面の波も色々だな
大小あるし、それに自分で立てた波でないものもある
他者の波に共鳴したり、感応した波が殊の外多い
そう感じながら暫く動いていると
どうも身体の状態がもろに、その心に影響しているみたいだ
・・ああ、これは身体の状態、身体を総合的に感覚で感じてるんやな・・
どうやら、その心というのんは‘身体’のようだと分かる
身体の状態、力みとか重心の位置などで
その感覚も直ぐに変化していく
ただ身体の直接の感覚ではない
今まで‘自身の心’と思っていたものの大部分が
実は‘他者の心が立てた表面の小波’にすぎないこと
心と身体は一つのもの
この二つが感覚として、感じられたのはとても有り難い
道半ばとは言えども
今回の納得はとても有り難い
余談
今まで縁のあった人、物、全てのお陰
というのは本当だけど
心に小波を立てられるのが
面倒くせぇ〜
と思う、うざったがりの影響も少なくない気がする 笑