白洲正子さんの器つれづれより
気になったところを忘れぬ様に抜粋
P 27
平安時代の「聖衆来迎図」や「山越の弥陀」の画などは、
眼に映ったのは落日か月の出だったかも知れないが、
その中から仏が姿を現す、もしくは、日月がそのまま仏と現じる光景を
まざまざと観たことは疑えない。
〜 ( 中略 ) 〜
茶碗や徳利だって同じことである。
〜 ( 中略 ) 〜
山川草木皆是真と思う時、仏と陶器との間に何の差別もありはしない。
( 一体の仏像を造る思ひをなし、ということか )
P 31
そこには叩けばピンと鳴る手応えがあるだけで、あいまいなものは
何一つ認められない。
〜 ( 中略 ) 〜
美しい物は沈黙を強いる。
P 74 〜 75
時には欠けたり、ゆがんでいたりしても、ゆとりがあって、
自然であれば、何もいうことはない。
何百年も陶器とつき合ったあげく、私たちの祖先は、
そういう物の見かたに到達したのである。
人間は不完全なもの、わり切れぬものと合点したといえるであろう。
P 75
人に創造の余地を残してあるものが日本の陶器といえよう。