京都高島屋 福森雅武展

hirunesai2016-04-02

やしろ湯さんの駐車場を出たのは、まだ 9時前

一旦は、先に女神像を拝観しよう

松尾大社に向かうも

花の香りに満ちた清々しい春の青空と

其処ここで咲き誇るピンク色の美しい桜花を見ている内

この様子では、何時どこで渋滞に捲き込まれるか分かったものではない

と思い直し、Uターンをして河原町方面へと走る

開店の10時よりも大分に早く着いてしまう


10時、開店と同時に 6階の美術画廊へと向かう

京都高島屋さんで開催中の

福森 雅武 展

今回の個展は『 花の宴 』と銘打たれ

会場入り口正面には、まるでこの場に生えているかの様な

大きな桜 ‘ 木 ’ が大甕に生けられている


早速に拝見する

陶仏、花器を拝見している折、二人連れで来られた女性のお一方が

これもまた大きな椿の木が生けられているのを見て

「 ほら、椿が喜んでる ! 」と仰られたのが聞こえてくる

成程。まさにこの女性の言われた通りであろう

流石、会場に来られるお客さんの感性も一際のものだ


福森先生の作品を直に拝見するのは、実は今日が初めてのことなのだが

じっくりと拝見しているにもかかわらず

気が付くと、肩の力が抜けている

実に良い

土、釉、焼け、形が一つ

一つ、と言っても絶妙だ、とか

ヴァランスが素晴らしい、などという作為を落とし切れぬ、一つではなく

水辺に白鷺が舞い降りた時のような、あの

当たり前にしているだけなのに調和している

あの、一つなのだ


花器は花器そのものも良く、また花を生けても良い

器は器それ自体も良く、また料理を乗せても良い

福森先生の作品は作品そのものにも

また、それを道具として使った時のどちらにも

それぞれに変わらぬ美しさがある

ぽかん、と浮かぶ月も美しいし、虫の音を聴きながら目に映る月も美しい

ただ、月は月、なのである

自然の摂理の中でままに調和しているだけだ


先生の作品は

心穏かな日に、不図眺めた美しい風景のようである

美しい、といっても観光客が足を運ぶような美しさではなく

日常に見る、いつも我々の傍にある、美しい日本の風景

だから先生の作品を拝見していると

あ、ここの線がいい、とか

ここの所の形がいいなあ、と思うことがあるのだが

でもそれも、ほんの一瞬のことで、その線や形は直ぐに

風景の中にとけ込み戻ってしまう

それはまるで、一陣の風を

心地好い風だ、と感じたときには

既にその風が止んでしまっているのと何も変わらない


鹿の子釉の筒のぐい呑みと汲み出しを頂戴する


包装して頂く間、お抹茶を頂く

会場には絶え間なくお客様が来られ

また、迎えられる福森先生や先生のお嬢さんの道歩先生

先ほどお相手をして頂いたお茶の先生方が持て成されている


そんな中腰掛けたまま、先生の器をもう一度拝見する

目にはお皿、向付、お湯呑みなど、確かにはっきりと

器しか映っていないのだが

今、私が見ているのはズラリと坐す福森先生が作られた

陶仏ばかりであった


大変に貴重な経験をさせて頂きました

福森先生、土楽窯の方々、お茶の先生、高島屋の方

誠にありがとうございました