頭の蝿も追えないくせに
今の世の中には、頭の蝿は自分で追わなくても
誰かが始末してくれるものだという考えが蔓延しているような気がします。
自分の人生のツケはきっと誰かが払ってくれると
何の根拠もなしに信じてしまう国民性。
〜 中略 〜
しかし桜井氏にとっての母親は単に母としての存在だけではなかっただと思います。
365日×10年、20年、くる日もくる日も日常の中で目にする
強さやひたむきさの膨大な集積が
母という存在に対する畏敬の念になっていたのだとすれば
それは単なる甘えや許しをもらうだけの対象、つまり記号としての母とは
まったくかけ離れた存在であったはずだからです。
桜井氏の母親のような人は、ある意味とてつもない人で
一方ではたとえば社会の中では何ら特別の人ではありません。
そして私たちはもはやこういう人のことをどのように伝えたらよいのか
どう評したらよいのかさえ分からなくなりつつあるのかもしれません。
われわれはほとんど無反省に「親子の絆」という言葉を使うことがありますが
その中身はまったく変容している可能性があるのです。
未知の力を開く から名越先生の文です
前半は、無責任な権利の主張 もっと言えば私の中にも色濃く渦巻く期待
期待は病理
後半は勝ち組だとか負け組だとか
金と経済でしかものを見られない世の中
・・・そんな浅いことだけではないけれど
頭の蝿も追えないくせにっ !!